2009年06月16日

食中毒(しょくちゅうどく)とは、有害・有毒な

食中毒(しょくちゅうどく)とは、有害・有毒な微生物や化学物質等毒素を含む飲食物、水を人が口から摂取した結果として起こる下痢や嘔吐や発熱などの疾病(中毒)の総称である。

食中毒は、その原因になった因子・物質によって、(1)細菌性食中毒、(2)ウイルス性食中毒、(3)化学性食中毒、(4)自然毒食中毒、その他に大別される。

食中毒の直接の原因は、飲食物などに含まれていた有害・有毒な原因物質を摂取することによるが、その原因物質が直接に毒物として作用する場合と、原因物質が微生物であり、その増殖によって消化管の感染症を発症する場合に分けられる。広義には、前者を(a)毒素型食中毒、後者を(b)感染型食中毒と呼ぶ。(3)化学性食中毒や(4)自然毒食中毒はすべて(a)毒素型食中毒である。(1)細菌性食中毒や(2)ウイルス性食中毒では、その原因微生物によってタイプが異なり、(b)感染型食中毒を起こすものと、(a)毒素型食中毒を起こすものがある。(1)細菌性の毒素型食中毒の場合、原因となる細菌が食品中で増殖するとともに毒素を産生し、その食品を汚染することが食中毒の原因となる。この場合、増殖後に細菌を殺して除いても、毒素が残っていれば食中毒が発生する。また(1)細菌性食中毒では、病原菌が消化管内で増殖する際に初めて毒素を生成するものがあり、生体内毒素型食中毒と称されるが、これは感染型と毒素型の中間に位置するものとして、中間型食中毒とも呼ばれる。
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梅雨など高温多湿となる夏期に、最も食中毒の発生件数が多い。このほとんどは細菌性食中毒である。しかしこれ以外の季節であっても、冬期にもカキ (貝)が原因とみられるノロウイルスが原因の食中毒が多く発生する。また、キノコやフグなどによる自然毒食中毒は、それぞれその食材の旬にあたる秋から冬にかけて多く発生する。

かつては、人から人へ感染が及ばないものとされていたが、O157 などの腸管出血性大腸菌やノロウイルスは患者から患者へ感染するため、近年、国際的には食感染症として伝染病とあわせ対策がなされている。

代表的な食中毒 [編集]
食中毒には数多くの原因菌等があるがその中の代表的なものを以下に示す。

2006年度は、患者数別では、ノロウィルス、カンピロバクター、サルモネラ属菌の順であり、この3種が8割を占めた

2009年05月30日

抗戦派と上野戦争

徳川家処分に不満を持つ抗戦派は、江戸近辺で挙兵するが、新政府軍に各個撃破されていくことになる。福田道直率いる撒兵隊は1500人程度で木更津から船橋へ出て東海道軍と衝突、撃破された(市川・船橋戦争)。大鳥圭介と歩兵隊は下総国府台(千葉県市川市)に集結し、新選組の土方歳三らを加えて宇都宮城を陥落させるが、東山道軍によって奪還され(宇都宮城の戦い)、日光街道を北へ逃走し、その後東北から箱館へ転戦した。
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いっぽう一橋徳川家家臣の渋沢成一郎・天野八郎らは上野寛永寺に謹慎していた慶喜の冤罪を晴らし、薩賊を討つと称して幕臣などを集め、彰義隊を結成。上野の山に集結していた。江戸城留守居の松平斉民は、彰義隊を利用して江戸の治安維持を図ったが、かえって彰義隊の力が増大し、新政府軍の懐疑を招く。4月11日に慶喜が上野を退去した後も、彰義隊は寛永寺に住する輪王寺宮公現法親王を擁して上野に居座り続けた。閏4月29日関東監察使として江戸に下った総裁三条実美は、鎮将府を設置して民政・治安権限を徳川家から奪取し、彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告した。その後、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告し、5月15日に大村益次郎率いる新政府軍が1日で鎮圧した(→上野戦争)[48]。これらの戦いにより、抗戦派はほぼ江戸近辺から一掃された。

関東監察使三条実美は閏4月29日、田安亀之助(後の徳川家達。6歳)による徳川家相続を差し許す勅旨を伝達した[49][50]。ついで5月24日には駿府70万石に移封されることが発表となった[49]。これにより新たに静岡藩徳川家が成立したが、800万石から70万石への減封によって膨大な家臣団を養うことはできなくなり、駿府へ赴いた者は15000人程度だったという

2009年04月27日

アメリカ機甲師団の装備・編成の変遷

ドイツ軍のあげた大きな戦果に触発され、1940年6月より機甲師団の編成に着手した。7月15日付けで第1・第2の機甲師団が編成された。この時点での編成は以下のとおり。

第1機甲師団 - 1個機甲旅団(3個戦車連隊・機甲砲兵連隊・機甲工兵大隊)・1個機甲歩兵連隊・機甲砲兵大隊・機甲偵察大隊
第2機甲師団 - 1個機甲旅団(3個戦車連隊・機甲砲兵連隊)・1個機甲歩兵連隊・機甲砲兵大隊・機甲工兵大隊・機甲偵察大隊
第二次世界大戦においては重師団と呼ばれる編成(1942年編成)と軽師団と呼ばれる編成(1943年編成)の機甲師団が実戦に参加した。当初、戦車と歩兵の連携を軽視していたため戦車部隊の比率が高い編成だったが、戦訓により編成が見直された。第二次世界大戦終了まで重師団編成を維持したのは第2及び第3機甲師団のみである。第二次世界大戦終結までに第1から第14・第16・第20の16個機甲師団が編成された。

重師団 - 2個戦車連隊(3個大隊編成)・1個機甲歩兵連隊(3個大隊編成)が基幹、師団砲兵・機甲偵察大隊・機甲工兵大隊等が付属
軽師団 - 3個戦車大隊・3個機甲歩兵大隊が基幹、師団砲兵・機械化騎兵偵察大隊・機甲工兵大隊等が付属
兵器単体の性能は平凡なものの、圧倒的な生産力で、必要と考えられる兵器の機械化を進めたバランスの取れた機甲師団を作り上げた。歩兵部隊や砲兵部隊のみならず、他の支援部隊まで機械化が進み、迅速な進撃を可能としていた。また、所属部隊を入れ替えることのできる司令部組織「コンバット・コマンド」システムを採用したことにより、状況に柔軟に対応できた。さらに、充実した砲兵科と戦闘爆撃機による手厚い支援によって枢軸軍を圧倒した。

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「75mm砲で十分」とするアメリカ軍の判断の甘さで、M26パーシング重戦車の投入が遅れ、ドイツのパンター・ティーガー戦車に苦しめられたが、M4中戦車の数は膨大で、M4中戦車多数で強力なドイツ軍戦車に対して複数方向から集中砲火を浴びせるという戦術が多用された。
自走砲では、M8やM7などが投入された。ドイツ・ソ連と比べると非力な感はあるが、数は多く、上記の戦闘爆撃機の支援もあり、戦車隊を援護した。
兵員輸送車も充実していた。アメリカの優秀な軍用自動車としてジープが有名である。高馬力のエンジンは、大型トラックをも牽引することが出来、輸送用・偵察用・連絡用など幅広く用いられた。
機械化偵察部隊は装甲車の他に、M3軽戦車やM5軽戦車を使用した。

2009年04月11日

フォルテピアノ

フォルテピアノは一般にピアノの初期形態、おおよそ、1700年頃のイタリアのバルトロメオ・クリストフォリによる発明から、19世紀初頭までの楽器を指す。特徴として、革で覆われたハンマーをもち、チェンバロに近い、細い弦を張っている。音の響きはモダンピアノよりも柔らかく、持続が短い。また一般的に音域ごとに音色が異なる。

「フォルテピアノ」という用語は、19世紀初頭以前のピアノを、19世紀以降の楽器と区別して特定する必要がある時に用いられるやや専門的な用語である。英語圏、イタリア語圏、日本語圏などでは「フォルテピアノ」が用いられるほか、フランス語圏では「フォルテピアノ」および「ピアノフォルテ」、ドイツ語圏では「ハンマークラヴィーア」および「ハンマーフリューゲル」が多く用いられる。

「フォルテピアノ」とはイタリア語で「大きく優しく」という意味であり、モダンピアノの正式名称「ピアノフォルテ」の逆の組合わせである。この用語はいずれもクリストフォリの楽器に対して用いられた gravecembalo col (もしくはdi) piano e forte(優しく、大きく鳴るチェンバロ)、もしくはその類似表現の省略形に由来している。したがって、フォルテピアノと呼ばれている楽器を「ピアノ」と呼んでも一向に差し支えなく、「クリストフォリはピアノを発明した」や「モーツァルトのピアノ協奏曲」といった表現は広く用いられており、専門音楽家の多くにも認められるはずである。

初期形態のピアノを「フォルテピアノ」と呼ぶのは比較的近年の慣習で、『オックスフォード英語辞典』でもフォルテピアノは「ピアノフォルテの古い名称」とするだけである。フォルテピアノが用いられていた時代には、「フォルテピアノ」と「ピアノフォルテ」は同義に用いられていた。

構造 [編集]
フォルテピアノは、革で覆われたハンマーをもち、チェンバロに近い、細い弦が張られている。ケースはモダンピアノよりかなり軽く、19世紀初頭のものを除き、金属のフレームや支柱を持っていない。アクション、ハンマーはともに軽く、モダンピアノよりも軽いタッチで持ち上がり、優れた楽器では反応が極めてよい。

音域は、発明当初はおよそ4オクターヴであり、徐々に拡大した。モーツァルト(1756?1791)の作曲したピアノ曲は、約5オクターヴの楽器のために書かれている。ベートーベン(1770?1827)のピアノ曲は、当時の音域の漸増を反映しており、最末期のピアノ曲は約6オクターヴの楽器のために書かれている。なお、19世紀以降のモダンピアノの大半は7?オクターヴの音域を持つ。

モダンピアノと似たペダル機構はフォルテピアノの発明当初より存在したが、足ペダルではなくハンドレバーや膝レバーを備えた楽器もある。

音 [編集]
モダンピアノと同様、フォルテピアノは奏者のタッチによって音の強弱に変化を付けることが出来る。しかし音の響きはモダンピアノとかなり異なり、より柔らかく、持続は短い。全体の音が柔らかく、また急速に減衰するため、スフォルツァンドアクセントはモダンピアノより際立つことが多い。

また音域ごとにかなり異なる音色を持つ場合が多く、おおまかにいって、低音域は優雅で、かすかにうなるような音色なのに対し、高音域ではきらめくような音色、中音域ではより丸い音色である[1]。これに対して、モダンピアノでは音域ごとにそれほど大きく違いがないような楽器が多い。

歴史 [編集]

クリストフォリの発明 [編集]
現代「フォルテピアノ」と呼ばれる楽器は、18世紀転換期ごろにフィレンツェにて、チェンバロ製作家のバルトロメオ・クリストフォリによって発明された。現存最古の信頼できるフォルテピアノの記録は、クリストフォリのパトロンであったメディチ家の1700年の日付をもつ目録にみえる。クリストフォリは1720年代まで楽器の開発を続けた。現存する3台のクリストフォリの楽器はこの時期のものである。

クリストフォリの楽器は、優れたアクションで今日高く評価されており、ある面では後の楽器の多くよりも巧妙で優れた機構を持っている。しかしながら、フォルテピアノがフォルテピアノたるためにはアクション以外の面でも発明が必要であった。すなわち、クリストフォリのアクションをチェンバロに取り付けただけでは、ごく弱々しい音しか鳴らないと推定される。クリストフォリの楽器では、同時代のチェンバロよりも大幅に頑丈なフレームの上に、より太く、張力の高い弦を張っている。また、全音域で1音2弦ずつ弦が張られ、後のあらゆるピアノと同様、ハンマーが複数の弦を同時に叩くようになっている。

クリストフォリはまた、ピアノに初めてソフトペダルの機構を取り入れた。ソフトペダルはハンマーが叩く弦の数を減らすようにする機構で、クリストフォリの楽器ではハンドストップを使用している。ただし、モダンピアノのソフトペダルがクリストフォリの発明の直系なのか、独立に発明されたのかは明らかでない。

普及の開始 [編集]
クリストフォリの楽器は、1711年にフランチェスコ・スキピオーネ(スキピオーネ・マッフェイ)によるヴェネツィアの Giornale de'letterati d'Italia 掲載記事によって有名になった。この記事には、クリストフォリの発明の要である、アクションの図解も掲載されていた。1719年にはスキピオーネの著書に再録され、更にヨハン・マッテゾンの『音楽評論』(Critica Musica)にドイツ語の翻訳が収められた(1725年)。恐らくこのマッテゾンの書を通じて、ドイツ語圏にフォルテピアノが普及していく。

クリストフォリの楽器の普及は、当初はかなりゆっくりであった。これはチェンバロよりも製作が難しく、極めて高価であったためと推測されている。しばらくの間、フォルテピアノは王族の楽器であり、クリストフォリ製作やクリストフォリ風の楽器は、ポルトガルやスペインの宮廷で演奏されていた。ドメニコ・スカルラッティの弟子でもあったスペイン王妃バルバラ・デ・ブラガンサは数台のフォルテピアノを所有していたことで知られる。個人でフォルテピアノを所有した最初期の人物には、カストラートのファリネッリがいるが、ファリネッリの楽器は、バルバラの死後譲り受けたものであった。

特にフォルテピアノのために書かれた最初の楽曲、ロドヴィコ・ジュスティーニの「ツィンバロ・ディ・ピアノのためのソナタ」(Sonate da cimbalo di piano, 1732年)が最初に書かれたのもこの時期である。この作曲は単発的なものであり、ジェームス・パラキラスは、ジュスティーニの王族のパトロンたちはこのような楽曲の出版はジュスティーニにとって名誉となると考えていたと推測している(Parakilas, 1999)。楽器が高嶺の花であるうちは、フォルテピアノのための楽曲の市場はなかったと考えられる。

フォルテピアノが本格的に人気を得るのは1760年代になってからであったようだ。この時期から、公衆の前での演奏の記録があり、フォルテピアノのためと記された楽曲の出版も幅広く行われるようになった。

ジルバーマンの楽器 [編集]
ドイツ語圏でのフォルテピアノの製作を始めたのはゴットフリート・ジルバーマンであった。ジルバーマンはドイツのフライベルクで活動しており、1730年頃よりクリストフォリの設計に基づいてピアノの製作を始めた。クリストフォリが王室の保護を受けていたのと同様、ジルバーマンもプロイセンのフリードリヒ大王の庇護を受け、フリードリヒはジルバーマンの楽器を数多く購入した。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハが1736年頃におこなったジルバーマンの楽器の批判は著名であるが、後の1747年にベルリン訪問中に触れたジルバーマンのピアノは、バッハにも評価されたようである。パラキラスの説によれば、ジルバーマンの楽器の向上は、スキピオーネの記事だけに頼っていたのを、実際にクリストフォリのピアノに接する機会を得たことによるものであった。スキピオーネの記事の図解は、現存するクリストフォリ・ピアノと一致しないが、これはスキピオーネが間違った(スキピオーネ自身が記憶に基づいて書いたとしている)ものか、クリストフォリがスキピオーネの記事後にアクションを改良したものと考えられる。

ジルバーマンの功績と見なされているものに、ダンパーペダルの原型の発明がある。ダンパーペダルは、全ての弦から一度にダンパーを取り払う機構で、これにより全弦が自由に振動する。ジルバーマンが開発したのはハンドストップであり、演奏を中断しないと操作できないものであった。古典派の時代を通じて、膝レバーやペダルによる操作機構が備えられたが、全てのダンパーをあげるのは主にその音色を特別に利用するためであった。19世紀のモダンピアノの時代になると、ダンパーペダルを使用して叩かれていない弦の共鳴を得た音がピアノの音の基本となっていく。

ウィーンスクール [編集]
ジルバーマンのあとに続いたピアノ製作家たちはクリストフォリのアクションよりも簡潔な構造のアクションを開発し、遂にはエスケープメント(鍵が押されている間にハンマーが元の位置に戻る機構)すら欠くアクションまで開発した。このような楽器は批判の対象となったが(モーツァルトが父レオポルトに宛てた1777年の手紙が特によく知られる)、製作が容易で、スクエア・ピアノに多く用いられた。

シュタイン [編集]
ジルバーマン後の時期の最も重要な製作家の一人に、その弟子でドイツのアウグスブルクで活動したヨハン・アンドレアス・シュタインがいる。シュタインのフォルテピアノは、ある意味クリストフォリよりも「退化した」ハンマーをもつ。これはアクションの蝶番側ではなく打弦側が奏者側にあるもので、このようなアクションを、その後ウィーンで19世紀半ばに至るまで広く用いられたところから、今日一般に「ウィーン・アクション」と呼ぶ。ウィーン・アクションはクリストフォリ・アクションよりも簡単な構造を持ち、奏者のタッチに極めて敏感に反応する。エドウィン・リピンによれば、ウィーン式のフォルテピアノの打鍵に必要な力は、モダンピアノの半分、押し続けるのに必要な力は四分の一に過ぎないという(Ripin, 1986)。このことから、ウィーン式のフォルテピアノの演奏には、現代のモダンピアノの名手のような運動能力よりも、微妙なタッチのコントロールが要求される。

シュタインは楽器に使用する木材を極めて過酷な環境にさらす工程をおき、これによって木材に入ったヒビにくさびを打ち込んで埋めた。このことによりシュタイン・ピアノは長い寿命を得ることができ、このことについてはモーツァルトも言及しているほか、今日残存している楽器も複数ある。

その他の製作家 [編集]
シュタインのピアノ製作業は娘のナネッテ・シュトライヒャーとその夫ヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーによってウィーンで続けられ、成功を収めた。シュトライヒャー夫婦はベートーヴェンの友人で、ベートーヴェンもシュトライヒャー・ピアノを所有していた。シュトライヒャーの工房はその後2世代にわたって続き、19世紀初頭にはウィーンで広い音域を持つ頑丈な楽器を製作していた。

もう一人の重要なウィーンスクールの製作家はアントン・ワルターである。ワルターはモーツァルトの友人で、シュタインの楽器よりもやや力強い音の楽器を製作した。前述の1777年の手紙に見えるように、モーツァルトはシュタインのピアノを極めて高く評価していたが、本人の所有ピアノはワルターのものであった。シュタインとワルターの楽器は、今日の新しいフォルテピアノの製作におけるモデル楽器として広く利用されている。

この時代のまた一人の重要な製作家にコンラート・グラーフがいる。グラーフはベートーヴェンの最後のピアノの製作家で、ウィーンで最初にピアノの大量生産を大規模な事業として行った人物の一人である。

イギリスのフォルテピアノ製作は、ヨハン・クリストフ・ツンペに始まる。ツンペはドイツから移って、著名なチェンバロ製作家バーカット・シュディの工房でしばらく働いた後、1760年代の半ばから末にかけて、安価なスクエア・ピアノの生産を始めた。ツンペのスクエア・ピアノはエスケープメントのない、極めて簡単なアクション(「老人の頭」とも呼ばれる)をもっていた。フォルテピアノの技術的発展という点ではほとんど功績はないものの、ツンペの楽器は極めて人気が高く、イングランドの外でも模倣され、またフォルテピアノがチェンバロに取って代わるのに大きく貢献した。このようなスクエア・ピアノはまた、ヨハン・クリスティアン・バッハを代表とする1760年代のピアノによる公開演奏に主に用いられた楽器であった。

バッカース、ブロードウッド、ストッダード [編集]
アメリクス・バッカースは、シュディの工房の職人であったジョン・ブロードウッドとロバート・ストッダードとともに、ツンペのアクションよりも改良されたアクションを作り出した。「イングリッシュ・グランド・アクション」と呼ばれるこのアクションは、エスケープメントとチェック(落ちてきたハンマーヘッドを受け止める部品)をもち、ウィーン・アクションよりも大きく、しっかりとした響きを実現した代わりに、より深いタッチを必要とし、反応が相対的に鈍い。これらの製作家の手になる初期のイギリスの初期のグランド・ピアノは、外見はシュディのチェンバロに似て、どっしりとしており、優雅で、派手さを抑えた化粧張りで飾られている。同時代のウィーンスクールの楽器(1音2弦)と異なり、イギリスのグランド・フォルテピアノは1音3弦を張っていた。

ブロードウッド [編集]
ジョン・ブロードウッドは親方の娘(バーバラ・シュディ)と1769年に結婚し、最終的にはシュディの工房を継いで、ブロードウッド社(Broadwood company)と改名した。ブロードウッド社はフォルテピアノがモダンピアノに発展していく過程に大きく貢献し、今日も続いている[2]。ウィーンのベートーヴェンにも楽器を送り、ベートーヴェンもこの楽器を愛用したようである。

衰退と再興 [編集]
18世紀後半より、フォルテピアノは大幅な技術革新を遂げ、モダンピアノへ発展していき、旧式の楽器は作られなくなった。19世紀後半には、古楽復興の先駆者であるアーノルド・ドルメッチが3台のフォルテピアノを製作している。しかし、彼のフォルテピアノ再興の試みは当時としては異質であり、広い普及にはつながらなかった。

20世紀も後半になって、古楽復興運動の中でチェンバロの再興にやや後れて、フォルテピアノの本格的な再興も始まった。今日も盛んに古いフォルテピアノの修復や、古い楽器をモデルとした新しい楽器の製作が行われている。現代の代表的な製作家には、フィリップ・ベルト、ポール・マクナルティ[3]、ロドニー・レジエ[4]などがあげられる。また、チェンバロ同様、専門家によるキットからの製作も行われている。

フォルテピアノの再興により、18世紀から19世紀初期の音楽を当時の様式の楽器で演奏する活動も盛んとなり、音楽の解釈にも影響を与えている。多くの現代のチェンバロ奏者やピアノ奏者がフォルテピアノの演奏も行っている。特に著名な演奏家としてパウル・バドゥラ=スコダ、マルコム・ビルソン、イェルク・デームス、グスタフ・レオンハルト、トレヴァー・ピノック、ピーター・ゼルキン、アンドレアス・シュタイアーらがいる。

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2009年03月27日

懐疑主義

懐疑主義(かいぎしゅぎ、米: skepticism、英: scepticism)とは、基本的原理・認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする主義である。懐疑論(かいぎろん)とも呼ばれる。これに対して、絶対的な明証性をもつとされる基本的原理(ドグマ)を根底におき、そこから世界の構造を明らかにしようとする立場を独断主義(独:Dogmatismus)ないし独断論という。懐疑主義ないし懐疑論は、古代から近世にかけて、真の認識をもたらさない破壊的な思想として論難されることが多かった。これは、懐疑主義が、懐疑の結果、普遍性・客観性のある新たな原理・認識が得られなかった場合、判断停止に陥り、不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさをも疑うようになったためである。しかし近代以降は、自然科学の発展の思想的エネルギー源となったこともあり、肯定的に語られることが多い。

ピュロン [編集]
懐疑主義は、西欧においてはエリスのピュロン(前365/360年頃ー前275/70年頃)の思想から始まった[1]。ピュロン自身は著作を残しておらず、またその弟子ティモン(前325/320頃ー前235/230年頃)による彼の言行録も断片しか残っていないので、ピュロンの思想がどのようなものであったのか、その後のピュロン主義とどの程度まで一致するのかは不明である[2]。ピュロン主義者の中で唯一著作が現存しているセクストス・エンペイリコス(200年頃活躍)の著作のひとつ『ピュロン主義哲学の概要』によれば、懐疑主義はピュロン主義とも呼ばれるが、それはピュロンの思想だからではなく、古代の懐疑主義者の中でピュロンが最も懐疑主義に専念したからであった[3]。

ピュロン主義 [編集]
ディオゲネス・ラエルティオスが伝えるところによれば、ティモン以後のピュロン主義は、ティモンに弟子がいなかったためプトレマイオスが再建するまでは断絶していたという説と、セクストスまで連綿と続いていたという説がある[4]。もっとも、ディオゲネスが伝えているこの系譜の中で、今日においてその詳細が明らかになっている人物はひとりもいない[5]。また、ディオゲネスはプトレマイオスがピュロン主義を復活させたと述べているが、これについても、実際に復活させたのはアイネシデモス(前1世紀頃活躍)である説が今日では有力である[6][7]。

アイネシデモス [編集]
アイネシデモスは『ピュロン主義の議論』全8巻を著したが、しかしこの著作は残っておらず、セクストスが『ピュロン主義哲学の概要』などで彼について言及していることが知られているだけである[8]。

〔ヘラクレイトス哲学が〕われわれ懐疑主義と異なることは自明である。なぜなら、ヘラクレイトスは多くの不明瞭な物事に関してドグマティスト流の表明を行っているが、すでに述べたとおり、われわれはそんなことはしないからである。ところが、アイネシデモスを中心とする人たちは、懐疑主義はヘラクレイトス哲学に通じる道であると言っていた。(〔〕内は引用者の付記)

? セクストス『ピュロン主義哲学の概要』, 金山弥平=金山万里子訳『ピュロン主義哲学の概要』京都大学学術出版会、1998年、p.104.

このため、アイネシデモスは本当はピュロン主義者ではなくヘラクレイトス主義者だったのではなかったという疑いも持たれている

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2009年03月11日

ショチカルコ

ショチカルコ(Xochicalco)は、メキシコ・シティの南西約70km、 モレーロス州の州都 クエルナバカ市の南西約25kmに位置する古典期終末期から後古典期初頭(700年頃?1000年頃)に築かれた要塞都市[1]遺跡。海抜1500m前後の三つに連なった丘の上に立地する。

ショチカルコの名前の由来はナワトル語で「花の家のある場所」を意味し、花を表すXochi(tl)と家を表すcal(i)と場所にあることを意味する接尾辞である-coでできた語であるが、最近の研究でショチカルコが繁栄した当時は、「鳥が捕らわれた場所」[2]というような意味の名前であると考えられ、同じ文字は同時期のカカシュトラでもみられ商人を表す文字を描く一方で他の土地の名前を描く基壇[3]があって、ショチカルコとカカシュトラの両者に商取引のような関係があったことを示している。

ショチカルコには、先古典期の終末すなわち紀元前200年ごろからの居住が見られるが、本格的な発展期を迎えたのはテオティワカンの滅亡後で、650年頃から急速に発展し、メキシコ中央高原で最も影響力を持つセンターに成長した。

ショチカルコが建設された場所の中央を占めるのは、セロ・ショチカルコとして知られる山であってその山頂には公共建造物があり、その周囲にはテラスと一般住民の居住区が広がっている。地形をたくみに利用して比高差130mの丘陵を中腹から幾重にも階段状に整地して、そのテラスの側面に噴き石を行い、塁壁が入れ子状に連なって壁や空堀として効果的な防御としている。そういったテラスの段差は3mから高いところで5mに達する場所もある。

セロ・ショチカルコとその周辺の丘陵がこの時期の主要なセンターが発展する場所の一つとして選ばれたのは、丘の周りに予想される外部からの攻撃を防ぐために堀や溝や城壁を築くのに都合のよい自然の要害であったことに起因していると考えられる。細心の設計のもとに城壁を築いて土を動かしたり積み重ねたりなどの造成を行い、「城壁」部分は石灰層で被われさまざまな多彩色のモチーフが描かれた。ショチカルコの城壁は丘全体に巡らされショチカルコ自体を遠方から観察した場合に一つの巨大なピラミッドのようにみせている。

ショチカルコの中核部へつながる通路はごくわずかであり守るのに適した構造になっていた。ショチカルコの本体のある丘の頂上は漆喰で塗り堅められた中央広場があり主神殿である「羽毛の蛇(すなわちケツァルコアトル)の神殿」をはじめ多くの神殿、蒸気風呂や三つの球戯場、円形の祭壇や独立して建てられた石碑[4]がある。ショチカルコには、膨大な量の石彫があり、古典期終末期の社会的政治的宗教的な構造について推測する良好な資料となっている。とくに文字が刻まれた石碑は、マヤのように王の姿や名前と歴史が刻まれていると考えられている。象形文字はサポテカやマヤにもみられるような点と棒を用いた数表記、トルテカやミシュテカ、後にはアステカで使われるようになる動物や独特な表現で象形的に事物を表した日付けの文字などが刻まれている。
ナーゼ リズム チェリ ゲバラ 津田かぶ ハニカム ロジック ニーネ フィギ メートル ドニヒリズム チェーサー はこべ ジレン ジェミニ 次郎柿 ブリク テクノロ きない ニップレス ケイン そらの木 ギリソウ カレッ ヤルタ ミムルス 希望の橋 イメクラダ ブック ナチス ラーメ 幸福 ローボール かっさい シュリン オステ けたあみ バシリ ノニオ スイレ かめだ 西条柿 テント 小指 サイトミニ ばれいし デジパー ドライ マグネット バロメ

ショチカルコの編年はエドワルド・ノゲーラ(Nogera,E.)、ケネス・ハース(Hirth,K)、アン・サイファース(A.Cyphers)によって行われた調査で先古典期から後古典期にわたる居住によって推定されるが、最近の調査、すなわち1984?86年及び1991?94年にショチカルコ丘陵で行われた調査でショチカルコの居住は放射性炭素年代測定により古典期の終末に属することがあきらかになった。


2009年02月23日

普通話(ふつうわ、pǔtōnghuà: プートンホア)

普通話(ふつうわ、pǔtōnghuà: プートンホア)とは、中華人民共和国において漢民族の共通語として作られた中国語のことをいう。北京語音を標準音とし、北方話を基礎方言とし、典型的な現代白話文の著作を文法規範とする。現代の普通話は中国の公用語であるが、1950年代から60年代にかけて共産党と人民政府により、普通話の名称と簡体字、ピンインの採用などその内容を法律として定められ、各民族も普通話を学ぶことが推奨されているものである。なお「普通(pǔtōng)」の二字は、「普遍的と全体に発音は北京語音を標準音とする。北京語音というが北京語と全く同じわけではなく、北京語土着の音は含まれない。歴史的には清代、官吏たちの共通音として北京官話が設けられ、中華民国になると五四運動以降、国語運動が起こり、国音として採用された。
富有柿 クイッ リブート フットサ ラインス メスズ ファズ検索 ドックス イエロ ウィン だんがい ダーティー セント テープ サーチケ パラノイ モーゲージ ユーロ ムード ニュース チロロ レチノ サキソニ リピー プブック ヘデラ みそぎ タンバ 天王寺 火の鳥 イツァ タンタル はしゅ バイヤヤー レディネス フライト スロイス トレモロ 超特急 こたん はたけやま 応和 サウス テーベ シャレ トゴス スコッチ リーデー オフェンス ゲンノシ

語彙
語彙は北方方言を標準語彙としている。北方方言は使用人口が最も多く、また使用地域も東北・華北・西北・西南・江淮一帯と広範囲に分布してるため普通話の基礎語彙として採用された。ただし、北方方言のすべての語彙が採用されているわけではなく、また他の方言語彙でも影響力の大きなものは普通話に採用される。

文法
文法は典型的な現代白話文の著作で使われている文法を標準としている。ここでいう「現代」とは五四運動(1919年)以降のことをいう。白話とは唐代に生まれ、宋元明清を通じて確立されてきた口語に接近した書き言葉のことをいう。白話によって書かれた文学は白話文学といわれる。これに対立する古典的な書き言葉は文言と呼ばれる。近代中国の新文化運動時代になると、言文一致を目指し、文言文を廃して白話文を採用するという白話文運動が展開され、新しい白話文の形が模索された。こうして確立された現代白話文の文法規則が普通話の標準文法として採用されている。

歴史
前史
中国の歴史のなかでも古くから政治的に何らかの共通語が設けられていたと考えられている。春秋時代、『論語』には孔子が『詩経』や『書経』を読んだり、儀礼を行う際に「雅言」を使ったと書かれており、これは統治階層が使っていた共通語ではないかと考えられている。漢代、揚雄が方言語彙を記録した書物『方言』には、「通語」という言葉が現れている。異民族に支配された元代には「天下通語」と呼ばれる共通語があったとされる。明・清時代には官話と呼ばれる官吏たちの使う共通語があったことが知られており、明末に訪れた宣教師は官吏(マンダリン)の言語と呼んだ。明代から清初にかけては南京音を標準音とした南京官話であったと考えられており、満洲民族によって支配された清代になると徐々に首都北京の音を基準とした北京官話が有力になっていった。中華民国となり、新文化運動の時代には言文一致運動にあたる白話文運動が起こり、それまで古典に対する教養を前提とした統治階層の書き言葉である文言文を廃止し、一般民衆が話す言葉に根付いた書き言葉である白話文を使うことが提唱された。そして、1926年には国語運動が展開され、漢民族の共通語を「国語」と呼ぶことが決定され、北京語音が国音として採用された。

普通話の歴史
「普通話」という言葉を初めて使ったのは朱文熊とされる。朱文熊は1906年、『江蘇新字母』において中国語を文言・普通話・俗語の3つに分類した。

中華人民共和国成立後の1955年10月、共産党と人民政府は全国文字改革会議と現代漢語規範問題学術会議を招集し、そこで現代漢民族の共通語の名称「普通話」とその内容が確定された。これを受けて教育部は11月、「中学・小学および各級師範学校において大いに普通話を推し広めることに関する指示」を発表した。翌1956年、国務院が「普通話を推し広めることに関する指示」を頒布して、普通話の名称と内容を法律として定め、同年5月、「各省(市)教育庁(局)において普通話推広処(科)を設立することに関する通知」を発表した。1957年には教育部が「継続して普通話を推し広めることに関する指示」を発表し、1960年には中国人民解放軍総政治部が「全軍において拼音字母を学び普通話を推し広めることに関する指示」を発表し、教育機関や軍隊において普通話を使うことが推奨された。その後、文化大革命により普通話政策は一旦頓挫することなるが、文化大革命終結後、再開され、1982年11月には第5期全国人民代表大会第5次会議で通った『中華人民共和国憲法』に「国家は全国で通用する普通話を推し広める」ことが規定され、普通話の公用語としての地位が確立された。

音韻体系
普通話の音韻体系では、22の子音と10の母音が音素として立てられている。中国語の音節構造は(子音C) + (母音M) + 母音V + (子音C/母音V) / 声調T、すなわち(C)(M)V(C/V)/T である。伝統的な中国音韻学では、先頭部分のCを声母、M以下の部分を韻母に2分し、それに声調を加えて分析している。普通話では21の声母と39の韻母が設けられており、また声調では4つの調類が設けられている。

普通話の音節には入声が存在せず、日本語における促音のようなつまる音に相当する発音がない。普通話のみを母語とする者が外国語を話す際、日本語で「なかった」が「なかた」に近い音なるなど、独特の発音になることがあるのはこのためである。

なお中国語を表す文字は主として漢字であるが、音素を表記するためにピンイン(拼音)と呼ばれるローマ字が使われる。これに声調記号を組み合わせることで発音を表現する。

声母
声母とは中国語の音節構造上、頭子音にあたるものをいう。普通話では21の声母が設けられている。この他に頭子音として半母音の[w, j, ?]が存在し、wとyで表記されるが、伝統的にこれらは韻母に分類される。ただし、小学校のピンイン教育では便宜上、wとyを準声母と見なし、声母を23とすることがある。

調音方法?調音位置 両唇音 唇歯音 歯茎音 そり舌音 歯茎硬口蓋音 軟口蓋音
破裂音
(無声) 無気音 b [p] d [t] g [k]
有気音 p [p?] t [t?] k [k?]
破擦音
(無声) 無気音 z [?] zh [??] j [?] ?
有気音 c [??] ch [???] q [??] ?
摩擦音 (無声) f [f] s [s] sh [?] x [?] ? h [x]
鼻音 (有声) m [m] n [n]
側面音 (有声) l [l]
接近音 (有声) r [?] ?

? r を有声そり舌摩擦音 [?] と分析することもあるが、無声・有声の対立が他に無いこと、および実際の発音で摩擦が必須ではないことから、そり舌接近音 [?] と見なすのが適切である。
? j, q, x ([?, ??, ?]) の三者は独立の音素ではなく、z, c, s ([?, ??, s])、zh, ch, sh ([??, ???, ?])、g, k, h ([k, k?, x]) のいずれかの三者の異音と見なされる。一般には、g, k, h の異音と見なすのが好まれる。この組が b, p, f および d, t, l の各組と並列になるためである。普通話の点字はそのようになっており、ピンインの j, q, x の点字はそれぞれ g, k, h の点字と同じである。

韻母
韻母とは、中国語の音節構造上、頭子音を除いた残りの部分をいう。介音、主母音、尾音からなる。介音は半母音の /-i-/, /-u-/, /-y-/ のいずれか、尾音は半母音の /-i/, /-u/ および鼻音の /-n/, /-ŋ/ のいずれかである。普通話の韻母の重要な特徴は、主母音の /a/ と /?/ の対立である。

主母音 尾音 介音
Ø /i/ /u/ /y/
/a/ Ø [?]
a [i?]
ya [u?]
wa
/i/ [a?]
ai [ua?]
wai
/u/ [a?]
ao [ia?]
yao
/n/ [an]
an [i?n]
yan [uan]
wan [y?n]
yuan
/ŋ/ [?ŋ]
ang [i?ŋ]
yang [u?ŋ]
wang
/?/ Ø [?]
e [i?]
ye [uo]
wo ? [y?]
yue
/i/ [e?]
ei [ue?]
wei
/u/ [??]
ou [i??]
you
/n/ [?n]
en [in]
yin [u?n]
wen [yn]
yun
/ŋ/ [?ŋ]
eng [i?ŋ]
ying [u?ŋ]
weng ? [y?ŋ]
yong
Ø [z?]
-i [i]
yi [u]
wu [y]
yu

? ピンインでは b, p, m, f のあとに o を用いるが、これは他の頭子音のあとの uo と同じである。
? /u?ŋ/ は頭子音があると [?ŋ] に変わり、ピンインも weng から -ong になる。

r化した韻母を以下に示す。

主母音 尾音
(r化) 介音
Ø /i/ /u/ /y/
/a/ Ø [??] [i??] [u??]
/i/ [??] [u??]
/u/ [a??] [ia??]
/n/ [??] [i??] [u??] [y??]
/ŋ/ [???] [i???] [u???]
/?/ Ø [??] [i??] [uo?] [y??]
/i/ [e?] [ue?]
/u/ [???] [i???]
/n/ [??] [i??] [u??] [y??]
/ŋ/ [???] [i???] [???] [y???]
Ø [??] [i??] [u?] [y??]

r化は /-i/ および /-n/ を単に削除し、また /-ŋ/ を削除して主母音を鼻母音化する。

以下に伝統的な分析を示す。普通話の韻母の種類には単母音で構成される単韻母、二重母音・三重母音で構成される複韻母、音節末子音が鼻音で構成される鼻韻母がある。なおいくつかの方言に見られる破裂韻母(入声)は普通話には存在しない。また複韻母についてa, e, o から始まる下降二重母音の韻母を前響複韻母、i, u, ü から始まる上昇二重母音の韻母を後響複韻母、三重母音の韻母を中響複韻母という。韻母はまた発音開始時の口の開き方から四呼の4つに分類される。

開口呼 斉歯呼 合口呼 撮口呼
単韻母 -i [?][?] i [i] u [u] ü [y]
a [?] ia [i?] ua [u?]
o [o] uo [uo]
e [?]
ê [?] ie [i?] üe [y?]
er [?]
複韻母 ai [a?] uai [ua?]
ei [e?] uei [ue?]
ao [??] iao [i??]
ou [o?] iou [io?]
鼻韻母 an [an] ian [i?n] uan [uan] üan [y?n]
en [?n] uen [u?n]
in [in] ün [yn]
ang [?ŋ] iang [i?ŋ] uang [u?ŋ]
eng [?ŋ] ueng [u?ŋ]
ing [iŋ/i?ŋ] ong [?ŋ] iong [yŋ/y?ŋ]

通常全ての母音は口母音で発音されるが、[ŋ] で終わる音節の母音は、儿化しなくても鼻母音で発音されることが多い。

韻母はさらに韻頭・韻腹・韻尾の3つの部分に分けて分析される。韻頭は上昇二重母音の始めの音色である狭母音あるいは半母音を表し、介音と呼ばれる。韻腹は単母音あるいは二重母音・三重母音中、最も際だった音色の母音を表し、主母音と呼ばれる。韻尾は下降二重母音の終わりの音色である狭母音であるか音節末の鼻音子音を表し、尾音と呼ばれる。ピンインによる音声表記はこの3分法に対応している。

例字 声母 韻母
韻頭 韻腹 韻尾
介音 主母音 尾音
母音 子音
? m a
? t i ê
宝 b a o
根 g e n
王 u a ng
水 sh u e i
元 ü a n
二 er

声調

普通話の四声中国語は音節内の音高の違いによって意味を弁別する言語であり、この音節内の音高パターンを声調という。声調の種類のことを調類といい、普通話には陰平・陽平・上声・去声の4つの調類が設けられている。これを四声ということがある。なお古代中国語に平声・上声・去声・入声と呼ばれる四声があったが、普通話では平声が2つに分かれて陰平と陽平になり、入声は消滅している。

調類 声調値 例字 拼音 国際音声記号
陰平(第1声) 55 租 zū [?u?]
陽平(第2声) 35 白 bái [pa???]
上声(第3声) 214 水 shuǐ [?ue????]
去声(第4声) 51 句 jù [?y??]

また声調は音の高さだけでなく、音の長さにも関わっている。普通話の四声では上声が最も長く、その次に陽平、陰平、去声の順で短くなる。このため声調によって音が変化する場合があり、例えば、韻母ueiの主母音は上声でははっきりと発音されるが、他の声調ではあいまいであったり、省略されたりする。

連音変化
音節と音節が結合し、語や文が作られる過程の中で音の変化が起こることがある。代表的な音変化に以下のようなものがある。

軽声
軽声とは、単語や文のなかで音節が本来の声調を失うことをいうが、声調が音の高さによって特徴づけられるとすれば、軽声は音の強さによって特徴づけられ、短く弱い調子で発音される。その音の高さは、その音節本来の声調とまったく無関係に、前の音節の声調によって決められる。

調類 声調値 例 拼音
陰平(第1声) + 軽声 2 桌子 zhuōzi
陽平(第2声) + 軽声 3 牌子 páizi
上声(第3声) + 軽声 4 椅子 yǐzi
去声(第4声) + 軽声 1 帽子 màozi

声母の無気破裂音・破擦音は軽声では有声音化しやすい。

b[p]→[b]
d[t]→[d]
g[k]→[g]
j[?]→[?]
z[?]→[?]
zh[??]→[??]
また韻母の主母音は中央寄りとなり、あいまい母音化する。例えば、「爸爸」は[pa51pa51]から[pa51b?1]となる。

変調
変調とは、後の音節がもつ声調との関係や文法的機能により声調が変化することをいう。

上声 + 上声 - 上声が連続する場合、前の上声は声調値が35、つまり陽平になる。
上声 + 上声以外 - この場合、上声は低くなったまま高く成らず、声調値が211となる。これを半上と呼ぶことがある。
上声 + 軽声 - これも半上211となることが多い。ただし、本来上声であった軽声の場合は陽平35で発音する場合と半上211で発音する場合の2通りがある。例えば、哪里(どこ)は陽平で発音され、姐姐は半上で発音される。
上声が3つ連続する場合 - 言葉の構造により、変調の状況も異なる。例えば、「冷水澡 lěngshuǐ zǎo」のような「2つの音節のある言葉(冷水、冷たい水)+1つの音節のある言葉(澡、シャワー)」の構造なら、最後の上声だけ本来の上声で発音し、前の上声はすべて陽平35で発音する。逆の場合なら(例えば、「母老虎 mǔ lǎohǔ」、「1つの音節のある言葉(母、メス)+2つの音節のある言葉(老虎、トラ)」)、2つ目の上声だけは陽平35で発音する。
上声が3つ以上連続する場合 - 話すときの速さによって異なる。簡単に言えば、最も早い場合、最後の上声だけ本来の上声で発音し、前の上声はすべて陽平35で発音する。
去声 + 去声 - 去声が連続する場合、前の去声は低くなりきらず、声調値53となる。これを半去と呼ぶことがある。
以上のような普遍的な変調の他に、特殊な語や品詞において起こる変調がある。

不 bù - 「不」は通常、去声51であるが、去声が続く場合には陽平35で発音される。また補語を表す接中辞や反復疑問文といった文法的機能を表す場合には軽声となる。
一 yī - 「一」は本来、陰平55であり、単独で発音される場合や語末で発音される場合、序数を表す場合には変調しない。しかし、後ろに去声が続く場合には陽平35で発音され、去声以外の声調が続く場合には去声51で発音される。また動詞を重畳するとき間に入れられる「一」は軽声で発音される。
七 qī・八 bā - 「七」「八」は本来、陰平55であるが、次に去声が続く場合、陽平35で発音してもよいし、従来通りに発音してもよい。
形容詞 - 重畳で構成される形容詞の後半部分はもとの声調がなんであるかに関係なく、すべて陰平55で発音される。例えば、「好好儿的 hǎohāorde」、「漂漂亮亮 piàopiaoliāngliāng」、「暖洋洋 nuǎnyāngyāng」など。

r化
r化(アル化)とは語が接尾辞-r(漢字では儿で表記する)を伴う場合、韻母の母音を調音する際に舌先が持ち上げられ、r音性母音となることをいう。r化に伴い従来の音節構造に変化が起こるものがある。

複韻母のうち、韻尾が i [?]であるものは i が脱落する。
鼻韻母の鼻音韻尾は脱落する。ただし、韻尾がng[ŋ]であったものは母音が鼻母音として現れる。
単韻母のうち、iまたはüで構成される音節はそのあとに[?]が加えられ、二重母音化する。これはnを脱落させたin・ünにも当てはまる。
zi・ci・si、zhi・chi・shi・riは声母に[?]が加えられた音節に変化する。

台湾の中国語との関係
第二次世界大戦後も国共内戦を戦った中華民国の中国国民党は、毛沢東の中華人民共和国成立と前後して台湾に撤退したのち、中国語により台湾の統治を行った。台湾の公用語である中国語には普通話という名称は用いられないが、英語での名称としては中国の普通話も台湾の中国語も、現代の標準的な中国語または漢語としてどちらもマンダリン (Standard Mandarinもしくは一般的な名称として Mandarin)と呼ばれている。台湾人も英語で会話をする際に、自分たちの中国語を Mandarin と呼ぶことは少なくない。

なお清朝から中華民国となった時代に「國語」の呼称が採用されたが、この呼称が現代の台湾に引き継がれている。

ゆき渡る」を意味する。また他国において

2009年02月06日

ワマン・ポマ

ワマン・ポマ(Felipe Guaman Poma de Ayala、1550年? - 1616年?)はインカ帝国出身のインディオ。1936年に出版された『新しい記録と良き統治』の執筆者として知られると共に、インカ帝国史及び植民地社会における重要な証跡を残した人物である。
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

ワマン・ポマおよび『新しい記録と良き統治』は、1964年、スペインによるインカ帝国征服に関して被征服者側の記録を取り上げたメキシコの歴史家ミゲル・レオンの『征服の裏側』において初めて紹介がなされた。『新しい記録と良き統治』は、1615年に当時のスペイン国王フェリペ3世に宛てた1000ページ・挿絵500点を超える膨大な書簡で、インカ帝国時代、あるいはそれ以前のアンデスの歴史、スペイン人による征服史などの記録と植民政策に対する提言がカスティーリャ語で書かれたものである。インディオがスペイン人の征服をどのように見てきたのかを示す重要な資料であるとともに、アンデス史研究の為の史跡資料として注目を集めた。

人物
ワマン・ポマの出生地および出生年については諸説あり、祖父及び両親の出身地にあたるチンチャイスユ(クスコ北部)のワヌコ・エル・ビエホであるとする説やクンティスユ(クスコ西部)ルカナス地方のサン・クリストバル・デ・ソンドンド村であるとする説などが有力視されている[1]。また出生年については、ポスナンスキーの唱えたフランシスコ・ピサロのインカ帝国征服以前(1526年)とするもの、ルデーニャ・デ・ラ・ベガの唱えた征服後(1534年)とするもの、レブシゲルの唱えた1545年とする説など様々な説があるが、ワマン・ポマ自身は1615年の自身の書簡で自分のことを「齢80の老人」などと記述している[2]。現在は1979年にアントニオ・パディーリャ・ベンデスーが発表した1550年説が最も有力となっている。

自身の家系について、ワマン・ポマは次のように語っている。父方の祖父ワマン・チャバはインカ帝国成立以前にチンチャイスユを統治していたヤロビルカ家の君主であり、インカ王トゥパック・インカ・ユパンキと和平同盟を締結し、インカのチリ・キト方面征服に貢献した人物であったという。そして父親ワマン・マルキはインカ王ワスカルの副官としてインカ帝国に仕え、フランシスコ・ピサロがトゥンベスに上陸した際にインカ側の代表としてスペイン人を出迎えた人物であるとしている。ただしこれらの出自について、は自著『新しい記録と良き統治』に言及されているのみであり、同時代の他の記録からはこれらの事実は確認されていない。『新しい記録と良き統治』内では随所に父親あるいは祖父の功績が主張されており、研究者の中にはこれらの記述は自身の高貴さを際立たせる為の演出あるいは捏造であると指摘する者もいる。

ワマン・ポマは幼年時代は出生地と考えられているサン・クリストバル・デ・ソンドンド村で過ごしていたが、一時期クスコへ移住し、1562年頃にワマンガ市へと移った。それから1571年まで巡察使クリストバル・デ・アルボルノスの秘書としてインディオの改宗状況の調査の旅へ帯同し、ワマンガ地方を転々とした。この旅は各地のアンデスで暮らす人々の生活や習慣と触れる機会となった。その後再びクスコへ戻り、インカ皇族や教会関係者に仕えることでスペイン語をはじめとする様々な知識教養を吸収した。1582年頃に再びアルボルノスの秘書としてリマを訪れ、翌年同地で開催されたリマ教会会議の議事翻訳作業に従事するなど、どちらかといえばスペイン征服側の協力者の立場として過ごしていた。

1590年後半、ワマン・ポマの父親、ワマン・マルキがこの程死去するが、マルキが所有していた土地が財産継承者であるポマの不在を理由にスペイン人ドミンゴ・ヤウレスに明け渡されるという事件が発生した。これに対しポマは1597年に土地の所有権と受益権の返還を求める訴訟を起こしたが、これに敗訴。1600年12月、虚言を弄し、土地を搾取しようとしたとしてポマに対し鞭打ち200回、2年間のワマンガ市追放及び罰金200ペソの支払いが言い渡された。この時の事をポマは作品上で「本来、インディオの権益を守るべき立場にあるはずの地方官吏はその役割を果たそうとしていない」として激しく非難している。この事件をきっかけとしてポマはスペイン人支配下でインディオがどれほどもがき苦しんでいるかを後世に伝える為、これらの出来事を体験し、記録する為に放浪の旅に出ることを決意した。

その後ポマはカストロビレイナ、ナスカ、イカ、ピスコ、カニェテなどを歴訪し、リマへ向かう。そしてリマでしばらくの間滞在し、スペイン語を解さないインディオ達の権利を守る為に働いたとしている。数年後、ポマは生地であるサン・クリストバル・デ・ソンドンド村へ戻るが、「みすぼらしさ故に家族や親族ですら自分を気付かなかった」ような状態であった。このため村の住民からは歓迎されず、結局長く滞在する事無くこの地を去っている。

さらに放浪の旅を続け、1614年に当時滞在していたルカナス・アンダマルカス地方を発ち、再びリマへ向かう。これは地方での惨状を綴った手稿をスペイン副王へ直接手渡し、インディオに対する保護を訴える事を目的としたものであったが、リマでは副王に面会すら叶わず、1616年に他界した。結局この書簡は1615年にサンティアゴ・デ・チアポからフェリペ3世宛てに送付されたが、これにフェリペ3世が目を通したかどうかは定かではなく、日の目を見るまで3世紀以上を待たねばならなかった。

『新しい記録と良き統治』
ポマの『新しい記録と良き統治』はコペンハーゲンのデンマーク王立図書館の古記録コレクションと題された記録紙の中に埋もれており、ドイツゲッティンゲン大学教授リヒャルト・ピーチュマンによって1908年に「発見」された。ピーチュマンは1912年にロンドンで開催された「アメリカニスト会議」にてこの手稿を発表、研究者の間にワマン・ポマという人物の存在が知られる事となる。その後フランスのポール・リヴェーによって1936年、『新しき記録と良き統治』は公刊されることとなった。

しかしこの当時重要視されたのはポマが本当に訴えたかったスペイン征服史の裏側に潜んだ問題提起や証言ではなく、プレインカ時代に関するアンデスの歴史や文化に関しての部分であり、そしてそれらを伝える為に豊富に用いられていたポマの挿絵であった。これに異を唱えたのがメキシコのミゲル・レオンであり、彼の独自の解釈によって提唱された『征服の裏側』によって被征服者であるインディオから見たスペイン征服を知る上での重要な証跡史料としてその価値を見直されるようになった。

『新しい記録と良き統治』は目次を含め1179ページから成り、そのうち456ページを挿絵が占める。本作は大きく二部で構成されており、435ページまでが『新しい記録』と名付けられた古代からスペイン人征服までのアンデスの歴史を綴るもので、以降が『良き統治』と名付けられたスペイン支配下でインディオが受けた虐待行為や搾取の告発とその改革案から成っている。

2009年01月22日

人民解放軍は中華人民共和国の武装力

中国人民解放軍(ちゅうごくじんみんかいほうぐん Zhōngguó rénmín jiěfàngjūn)は、中国共産党中央軍事委員会(主席:胡錦濤)の指揮下にある中国共産党の軍事部門。即ち党軍であり、建前上、国家の軍隊(国軍)とは定義されない。憲法で人民解放軍は中華人民共和国の武装力であり国防を担当する、と規定されているので、事実上の国軍といえる。

軍区司令官級の将軍は、原則的に中国共産党中央軍事委員会の中央委員または中央委員候補の地位にある。1980年代から1990年代にかけて、財政難のため大幅な兵力削減と軍近代化が行われた。1927年8月1日の南昌起義を建軍記念日とし、軍の徽章には紅星に「八一」の字が、軍旗は紅地に黄色で星と「八一」の字(図案化されたので星の右下にある奇妙な記号のように見える)があしらわれている。総兵力224万人、予備役約50万人、他に人民武装警察66万人(2007年)

近年では兵器の近代化に力を入れていて、通常兵器による軍事力も一流になりつつあり、ロシアの専門家によれば2015年頃には第5世代戦闘機が配備されるのではないかと指摘している。[1]また、ロシアの兵器輸出企業の重役によれば中国はインドとは違い陸上兵器の近代化が進んでいるため、陸上兵器は地対空ミサイル以外はほとんど輸入してくれないと語っている。[2](新式装備の絶対数は多く、Su-27/Su-30MKKシリーズは300機以上ある。これは日本や韓国のF-15保有機数を凌駕している。また、空軍兵器の取引においては完成した機体を購入する時代は終わり、エンジンやレーダーなどのような装備単位で買う段階になったと言われている、その象徴がJ-10である[3])。また、特殊部隊の育成も進んでおり最近では世界最難関(世界中の優秀な特殊部隊員が参加しほとんどが脱落する)Army international Bootcampの合格者も輩出している(瀋陽軍区所属の将校)この時の詳細については瀋陽軍区#Army international Bootcampの合格者輩出にある中国中央テレビの番組でYoutubeなどでも公開されている動画を参照)。

経済成長を続ける中国において公務員である軍隊への就職は減っているため、政府は軍人に日常生活において映画館、バス代の免除、文房具の優先的購入などの様々な特権を与えている。

英国の軍事専門誌「ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー」が2008年世界軍事力ランキングを発表したが、上位5か国は米国、フランス、ロシア、中国、英国だった。 [4]

軍事予算
第11期全国人民代表大会第一回会議が始まるに当たって、2008年3月4日に姜恩柱報道官が記者会見を行い、中国の2008年度(1-12月)国防予算は前年度実績比17.6%増の4177億元(約6兆600億円)に上ることを公式に表明した。これは2007年末の為替レートで換算すると572億ドルになる。西側諸国の見解によれば後述の通り実際の軍事費はさらに大きいとみられるが、公表額においてもフランスを上回り、アメリカ、イギリスに次ぐ世界3位の軍事費になった公算が大きい。 この発表によれば、中国の国内総生産(GDP)に占める国防費の割合は1.4%で、2008年度の国防費が財政支出予算に占める割合は7.2%である。これらの発表によると、中国は1989年度以降20年間連続で軍事支出を10%以上拡大させ続けていることになる。
このような「公表額」に対して、西側諸国の当局や専門家は、「中国政府が、所謂中国脅威論によって軍備拡張が抑え込まれることを警戒して、軍事支出が小さく見えるように操作している」との見解を持っている。現に、アメリカ国防総省/台湾国防部の議会への報告によれば、中国の為替換算「軍事支出」は2007年で1100億ドル前後で、西側諸国と軍事費の範囲定義をあわせた中国の実態「軍事支出」は中国政府発表の公称「軍事予算」の2-3倍であるとしている。このような見解の論拠は、中国の予算制度は、ミサイル開発費などの国防科学研究費や軍事教育費用が文教科学予算項目に分類されていたり、戦略核弾道弾部隊(第二砲兵部隊)の維持費が宇宙開発予算に分類されている。また、沿岸・国境警備や内部防衛を担当する武装警察部隊の費用も公安予算に計上され、民間防衛や民兵予備役の費用も国防予算の項目に含まれていない。従って、軍事支出範囲の定義が西側より狭い中国政府公式発表軍事予算を単純に西側諸国の軍事予算と比較するのは実際の統計比較手法としては不正確であるというところにある。
ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

中国の軍事支出は数字の取り方によってまちまちである。例えば同じ2007年でも大きく分けて3種類に分かれる。すなわち購買力平価軍事「支出」4400億ドル(世界1位)、為替換算軍事「支出」1100億ドル(世界2位)、為替換算軍事「予算」351億ドル(世界4位)である。為替ベースか購買力平価かによって戦力を計る上での予算の意味も変わってくるが、これは、物価の安い国は同じ予算金額で物価の高い国の数倍の軍備が購入可能という問題を指す。例えば、陸上自衛官1人の給与金額で中国兵20人を雇用可能であり、物価の違いを修正しないで単純に金額を比較しても実際の単年度軍事資産購入量と乖離してしまう。現に、CIAの各国国力・GDP分析は購買力平価で比較されていることは有名である。なお、購買力平価軍事支出で中国が世界1位になったといっても、それは新興中国軍が「単年度の増加量」では世界1位になったというだけにすぎず、過去の膨大な軍事資産蓄積がある米露両国に軍事資産蓄積=軍事力で追いつくには時間を要する事はいうまでもない。一般的には現在の購買力平価軍事支出順位が続けばロシアには2015年前後、米国には2030-2045年に追いつく可能性があると見られている。
中国人民解放軍には他国の軍隊には見られない「自力更生」と呼ばれる独特のシステムが存在した。これは、簡単に言ってしまうと、「国家などの公的予算に頼らず軍が自分で自分の食料や装備を調達する」ということである。元々は軍人が自力で耕作して食料を調達して戦い続けたことを意味するが、1980年代になると軍事費の削減によって「軍事費は軍自らが調達する」という方針が共産党からだされたことにより国の近代化と資本導入が始まったことにあわせ、軍の近代化に伴う人員削減で生み出される失業対策も含めて、各部隊が幅広く企業経営へ乗り出していた。これは1998年に中国共産党が人民解放軍の商業活動を禁止するまで続いた。イギリスBBCの報道によると、食料の90パーセントを外部からの調達に頼っているということであるが、人員規模を考慮すると、逆を返せばおよそ20万人以上の食料を自給できているということであり、他の軍隊に見られない驚異的な特徴の一つとなっているといえる。
2000年代に入ってからアメリカやイギリスや日本は、中国に対して国防予算の内訳の透明性を向上させることを求めている。2008年3月4日には、日本国官房長官の町村信孝が中国の国防予算について「とても周辺の国々、世界の国々には理解できない。その中身がはっきりせず、透明性の欠如は大きい」と批判した。さらに「五輪を開き、平和的に発展していこうというお国であるならば、自らの努力で(中身を)明らかにしてもらいたい」と述べ、中国の国防予算の内訳について透明性の向上を強く求めた。

2009年01月15日

微生物の増殖を抑制する物質の総称

王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

antibioticsの語は1941年にセルマン・ワクスマンが定義した「微生物によってつくられ、微生物の発育を阻害する物質」が原義である。

フレミングが最初に発見した(1929年)抗生物質であるペニシリンはアオカビが産生する。初期の抗生物質は抗菌性(antibacterial)を示すものがほとんどである。

一方、抗生物質が化学療法にもたらした貢献は革新的であり、抗生物質は抗菌剤の代名詞ともなった。その後、化学療法が扱う抗真菌、抗ウイルス、抗腫瘍の領域においても、真菌類や放線菌類などの産生する天然物が探求されていった。その結果、抗腫瘍性抗生物質のように、必ずしも微生物ではないウイルスや悪性新生物の化学療法剤も抗生物質に含まれるようになった。

また天然物を化学的に修飾し、その作用の増強や性質の改良が研究され、それら修飾された薬剤も抗生物質とよばれるようになった。したがって、今日では「微生物の産生物に由来する化学療法剤」が広義には抗生物質と呼ばれている。言い換えると、抗生物質は微生物の産生物に由来する抗菌剤、抗真菌剤、抗ウイルス剤、そして抗腫瘍剤であり、その大半が抗菌剤である。 なお、ピリドンカルボン酸系(キノロン系、ニューキノロン系)やサルファ剤など、完全に人工的に合成された抗菌性物質も一般的には「抗生物質」と呼ばれるが、厳密にはこれは誤りで「合成抗菌薬」と呼ぶのが正しい。抗菌性の抗生物質、合成抗菌薬をあわせて、広義の抗菌薬と呼ぶ。

薬理
抗生物質を含む抗菌剤は、細菌が増殖するのに必要な代謝経路に作用することで細菌にのみ選択的に毒性を示す(人体への毒性はそれに比べはるかに小さい)化学物質である。アルコール、ポビドンヨードなどのように、単に化学的な作用で細菌を死滅させる殺菌剤、消毒薬とは区別される。

細菌性の肺炎や気管支炎、中耳炎、敗血症など感染症の治療に用いられる。人類の最大の脅威であった細菌感染を克服し、平均寿命を大幅に伸ばすこととなった大発明であった。[1]しかし、感染症との戦いは終わったわけではなく、治療法の開発されていない新興感染症、抗生物質の効力が薄くなるなどした再興感染症などが問題となっている。

耐性菌の出現
抗生物質を濫用すると、抗生物質を分解したり無毒化してしまう因子を獲得した細菌(耐性菌)の発現・拡散を助長する危険性がある。実際、抗生物質を多用する大病院などの医療現場を中心に、多くの抗生物質に耐性を示す多剤耐性菌、とりわけメチシリンが効かないメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(Methicillin-resistant Staphylococcus aureus:MRSA)による院内感染が問題となっている。さらに、MRSAに対しても効果があるとされた薬剤・バンコマイシンでさえ効果のないバンコマイシン耐性腸球菌(VRE)、バンコマイシン耐性ブドウ球菌(VRSA)などが報告されるようになった。

医療機関(主に開業医)は風邪の患者に対して抗生物質を処方することもある。しかし風邪の多くはウイルスの感染症であり、抗菌剤である抗生物質は風邪の治療に効果がないことが多い。抗生物質の投与は細菌感染による肺炎などの合併症の予防のためという根拠も脆弱として、日本呼吸器学会は風邪への安易な抗生物質処方を控えるべき旨のガイドラインを発表した(抗菌薬の適正使用)。

分類

構造による分類
β-ラクタム系
ペニシリン系(PCs)
βラクタマーゼ阻害剤配合ペニシリン系
セフェム系(Ceph)
βラクタマーゼ阻害剤配合セフェム系
カルバペネム系
モノバクタム系
アミノグリコシド系
テトラサイクリン系
クロラムフェニコール系
マクロライド系
14員環マクロライド
含窒素15員環マクロライド
16員環マクロライド
ケトライド系…マクロライドに似る。
ポリエンマクロライド系…真菌に対して使用。
グリコペプチド系…抗MRSA薬。グラム陽性球菌のみに有効。
核酸系

作用機序による分類
DNA合成阻害
RNA合成阻害
蛋白質合成阻害
細胞壁合成阻害
細胞膜変質
代謝阻害

その他
抗癌抗生物質
マイトマイシンC
ブレオマイシン

抗生物質の臨床応用
抗生物質の大部分は抗菌薬として使用される。抗菌薬の投与方法は臨床薬理学の考え方が適用されている。細菌感染症に対する抗生物質の投与は、抗生物質は化学療法剤とは異なるものの、臨床医学的にはまとめて化学療法と呼ばれている。細菌に対する抗生物質を使用した治療の実際については、化学療法 (細菌)を参照のこと。

その他、ポリエンマクロライド系抗生物質は真菌の治療に使用される。また、癌治療にはマイトマイシンCやブレオマイシンなどの抗生物質が使用される。またシクロスポリンも抗生物質であり、免疫抑制剤として移植医療の現場で活躍している。